価値ある無価値

自立(自律)の追求

物の価値

僕が毎日食べているひよこ豆の缶詰。
そして必ずと言っていいほど、この缶詰に入っている黒ずんだ豆。
250gの缶におよそ1つか2つは入っている。

僕はいつもこれを当たりと呼んでいた。
そして昔から大多数に隠れている異種を探すのが好きだった。
小さい頃食べていたピンキーがそうだったように。

しかし、中にはこの豆を不揃いだと言う理由で捨てる人、もしくは不純物だと言って怒りだす人もいるかもしれない。
こんな人たちにとってはハズレである。

同じ対象物でも人によって見方が変わるらしい。

だがあることに気がついた。

ハートのピンキーと黒ずんだ豆の違いは一体なんだろう。
嬉しい感情と不快な感情の決定的な違いはどこにあるのだろう。
それぞれ同じ材質で一缶、一箱に1、2つの割合で入っていて
形、色の違いがあるのみ
そもそも価値とはどうやって決まるのだろう

いくつか要因を考えた

もしかしたら会社側の意図が関係しているのかもしれない。
わざと入れているのか、誤って入ってしまったのかでは受け取り側に大きな違いがある。

しかし、ハートは故意的にいれ、黒豆は不注意で入ってしまったと誰が決めたのだろう。

もしかしたらピンキーを製造する機械の問題で数個に一個、丸いはずのピンキーがハート型になってしまうのかもしれない。

逆にひよこ豆の会社が1000粒に一つわざと黒い豆を入れている事実があるとして、どうしてそれを疑うことができるのだろう。

ハートはみんなに受け入れられ、会社側も堂々とCMに「ハートがたまに入っています」と言えるだろう。
機械の弱点を「ハート型」が助けてくれた可能性もある。

黒い豆には栄養価がふんだんに入っていて、本当は全部黒くしたいが、そうしてしまうとコストがかかるから少ししか入れることができないのかもしれない。

見えない真実はいくらでも考えられるのであてにするべきでは無いだろう。



では次に見た目の良し悪しで価値は決まるのだろうか?
直感で好き、嫌いを判断しそれが価値に直結しているのかもしれない。

ここでも疑問が浮かぶ

それでは不揃いで見た目の悪い穴のずれた硬貨にはどうして価値がつくのだろうか。

こうなると見た目で価値を判断するのも完璧では無いようだ。



これらをまとめて僕なりに出した答えは

「物の価値はそれ自体には何の価値もなく、それに同意した人の数や価値観で決まる」


つまり黒い豆には自分一人が同意した分の価値があると言うこと。


希少性、要素、質は価値を決める上で全てではないことが自宅のキッチンでわかった